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代表取締役 田中 慎也

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2026.08.11

中野市平野小学校には、実は私たち三代の仕事が入っています。

こんにちは。
「長野に暮らす、長野と暮らす。」
田中建築株式会社 代表の田中慎也です。

中野市の平野小学校に通われた方。お子さんを通わせた方。運動会や参観日で、あの校舎を歩いたことのある方へ。

今日は、少しだけ昔の話を書かせてください。私にとって平野小学校は、ただの「昔担当した建物」ではありません。あの校舎には、祖父と父と私、田中家三代の仕事が入っています。
そして、この経験は今の私の建築にも、中野市にモデルハウスをつくろうと思ったことにも、深くつながっています。

まず最初に、ひとつだけ

平野小学校は、田中建築が施工した建物ではありません。私が田中建築に戻る前、中野市の春日建設に勤めていた頃に携わらせていただいた仕事です。平野小学校の教室棟増築工事は、守谷商会、春日建設、中野興業の3社JVでの仕事でした。

当時の会社には本当にお世話になりました。右も左も分からない若い私を育てていただき、現場ではたくさんの職人さんから叱られ、教えていただきました。今の私があるのは、春日建設での経験と、あの頃出会った皆さんのおかげだと思っています。そのことは、最初にきちんと書いておきたいと思います。

私は、平野小学校の現場監督の一人でした

当時の私は、現場監督として平野小学校の工事に携わっていました。その中で担当していた仕事の一つが、木工事の施工図です。
施工図というのは、設計図を見ながら、

「この木材を、どの寸法で加工するのか」
「どこで継ぐのか」
「どう組み上げれば、きちんと納まるのか」

そうしたことを、実際に現場で仕事をする大工さんたちが分かるように描いていく図面です。若かった私は、図面に向かいながら必死でした。なぜなら、その図面を見る大工の中に、私の父と祖父がいたからです。

私が描いた図面を、父と祖父が形にする

これは、今振り返ってみると、とても不思議な経験だったと思います。私が現場監督として施工図を描く。その図面を父と祖父が見る。
そして二人が木を刻み、組み上げていく。私が紙の上に描いた線が、父と祖父の手によって建物の一部になっていく。

祖父は大工。父も大工。そして私は現場監督。

立場は違いましたが、三人で同じ建物をつくっていました。今思えば、あれは私たちなりの「会話」だったのかもしれません。もちろん、現場ではそんな格好いいものではありませんでした。

図面が甘ければ、「これじゃ納まらないぞ」と言われます。

相手が父だから、祖父だからといって、甘くしてもらえるわけではありません。むしろ身内だからこそ厳しかったと思います。若い頃の私は、それが悔しいこともありました。

「分かってるよ」と思ったこともありました。でも今になってみると、あの時間がどれほどありがたかったか分かります。

「図面は、現場で使えて初めて図面になる」

私は設計をするとき、今でも現場のことをかなり考えます。見た目が格好いいだけでは駄目。大工さんがどうつくるのか。
雨はどう流れるのか。木はどう動くのか。十年後、二十年後に修理するとき、きちんと手を入れられるのか。それは、平野小学校をはじめとする中野市の現場で職人さんたちから教えていただいたことです。

そして父と祖父から、身体で教えてもらったことでもあります。

図面は、描いたら終わりではない。
現場できちんと形になり、長く使われて初めて意味がある。

これは今も、私の建築の根っこの部分にあります。

中野市を走ると、昔の自分に会います

平野小学校だけではありません。中野小学校の工事にも携わりましたし、きもの屋さんの工事や、道路工事、コンビニなど、中野市ではいろいろな仕事を経験させていただきました。

今でも車で中野市を走っていると、「ああ、ここもやったな」と思う建物があります。

若い頃は、一つの現場を終わらせることに必死でした。でも、二十年近く経ってから見ると、その建物はまだそこにある。当時の自分がつくったものが、今も誰かに使われている。建築という仕事は、怖い仕事でもあります。

建てた人間が思っているより、建物はずっと長く残るからです。

だから、いい加減な仕事はできない。年齢を重ねるほど、その気持ちは強くなっています。

学校も、住宅も同じだと思っています

学校は、何百人という子どもたちが毎日使う建物です。住宅は、一つの家族が毎日暮らす建物です。規模も用途も違います。でも私には、同じものに見えるところがあります。

それは、そこに人の人生が積み重なっていくことです。

入学した日のこと。運動会のこと。友達と笑ったこと。
子どもが生まれた日のこと。家族で囲んだ食卓。子どもが巣立っていく日。

建物そのものが主役なのではなく、その中で営まれる暮らしや時間が主役なんだと思います。だから私は住宅をつくるときにも、流行だけを追いかけるのではなく、何十年後にも「この家で良かった」と思っていただける建物をつくりたいと思っています。

なぜ、中野市にモデルハウスをつくったのか

「どうして中野市にモデルハウスをつくったんですか?」と聞かれることがあります。もちろん商圏として考えた部分もあります。会社ですから、経営として考えることも当然あります。

でも、それだけではありません。私にとって中野市は、建築を育ててもらった街なんです。

若い現場監督だった私が、建築の厳しさを教えてもらった街。職人さんから叱ってもらった街。父と祖父が、大工として木を刻んでいた街。だからいつか、自分が代表となった田中建築として、この中野市でもう一度建築をしたいという気持ちが、ずっと心のどこかにありました。モデルハウスをつくろうと決めたとき、私の中にはそんな思いがありました。

中野市に「進出した」という感覚とは少し違います。
育ててもらった場所に、もう一度帰ってきた。私の中では、その感覚のほうが近いのです。

三代続いた仕事を、次の世代へ

祖父は大工でした。父も大工でした。私も大工を経験し、現場監督を経験し、今は設計をしながら田中建築の代表をしています。立場は変わりました。時代も変わりました。

でも、私の中に流れているものは、祖父や父の頃とそれほど変わっていないと思います。

「ちゃんとしたものをつくる。」

とても単純なことですが、結局ここに戻ってきます。平野小学校には、祖父が刻んだ木があります。父が手を入れた木があります。
そして、若かった私が描いた図面があります。三代の仕事が、一つの建物の中に残っています。そう考えると、建築という仕事を選んで良かったなと思います。

そして、これから田中建築が中野市でつくらせていただく家も、何十年後かに、

「この家を建ててもらって良かった」

と言っていただける建物にしたい。そう思っています。もし平野小学校を卒業された方が、いつかご自身の家を建てようと思ったとき。その候補の一つに、田中建築を思い出していただけたら。私にとって、それ以上に嬉しいことはありません。

あの校舎の木を刻んだ手と、あの現場で教わった心は、今の田中建築にもつながっています。

これからも、中野市で一棟一棟、きちんとした仕事を積み重ねていきたいと思います。


 

田中建築 中野市モデルハウス

家を建てる相談でなくても構いません。

「平野小学校、懐かしいね」
「昔、中野のどこで仕事していたの?」

そんな話だけでも大歓迎です。中野市で暮らしてきた皆さんと、建築の話、家の話、昔の話ができたら嬉しく思います。
どうぞお気軽にお立ち寄りください。

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